やっぱり文句を言いたい私。
「エジプトのモーゼ」の演出です。
最近、特にモーツァルトとかヘンデルとか
ハイドンとかロッシーニとかを
どうして、こう現代的に演出するんでしょうかね?
台本に忠実な古典的な演出は出尽くした、
と思われているんでしょうか、
それもとそういうのは退屈だ、
と思われているんでしょうか?
私言わせれば、古典を退屈だと思っているのは
演出家だけであって、一般的な観客は
古典的な演出を好む人が多いような気がします。
水戸黄門が最後に印籠を出したら一件落着、めでたしめでたし。
それでいいじゃありませんか?
「パターン」こそ、永遠の真理だと思うんですが。
さて今回の演出。
必ずしも悪いアイデアだったとは思いません。
時代を現代に置き換えたのは。
最初に、エジプト人がヘブライの神の怒りにより
国が闇に覆われたことを嘆くシーン、を
為替市場のような場所で、
スーツを着たエジプト人がコンピューターを見て
ショックを受けている、
といった解釈にしてみたり、
スーツケースを持たせたり、自動車や飛行機やを登場させたり、
果ては、特殊急襲部隊のようなエキストラを
天井から降下させてみたり、機関銃を持たせてみたり。
何の意味があったのかはよく分からないけど、
観ていてそれほど奇異にも思わず、むしろテンポ感もあって、
小気味よかったんです。
しかし。
ちょっとばかり、「忙し」過ぎたんですよね。
もともと話のテンポが速いのに、一つの幕の、一つの場で、
登場人物が変わる度に、何度も舞台転換をされると、目が回ります。
それにちょっとばかり、「うるさ」過ぎたんですよね。
敵方の女性との恋を父親に打ち明けられず、苦悩する王子と
悩む王子の様子を心配し、話すことを促すファラオとの
親子の対話シーン。
しかし、なぜそれを現代的な台所で、
親父さんに卵を炒めさせながら歌わせるんでしょうか。
王子の悲劇的な独語の背後で、卵が「ジュージュージュー」・・・
しかも親父さんが炒めている卵は1個だけ。
え?それを二人で分けるの〜?
しかも油、ひいてませんよね。焦げ付きませんか?
・・・妙な事が気になるため、気が散ってしょうがないんです。
(私だけ?)
さらに、ちょっとばかり「飛び散り」過ぎだったんですよね。
苦悩したエジプト王妃が狼狽の余り、台所で飛び散らした、
タッパーのふた、とか、
王子オジリデが死亡すると同時に、いきなり腹から血を噴いて
一緒になって死亡する貴族の男たちの血のり、とか、
男たちの死にショックを受けて右往左往する女性たちが、
テーブルからはたき落してしまう、プラスティックのコップ、とか。
(いくら舞台の上だからって、エジプトの王ともあろう人が
随分安っぽいものをお使いで・・・)
おかげで幕間の掃除に時間がかかるし、
掃除機のブーブー言う音が聞こえるし、
妙に間も開き過ぎて、緊張感が切れてしまうんです。
ロッシーニがこのオペラを書いたのは1819年。
もちろんこんな現代的な舞台設定など、
想像だにしていなかったはずです。
現代演出が常に悪いとは思いません。
斬新な演出によって作品の新たな魅力が発見されるということは
あると思います。
今回の演出だって、失敗作では全然ないと思うんです。
でも。
いつも思うんですよね。
オペラの舞台を作るとき、
一番えらい人は誰なんだろう?
作曲家か台本作家か指揮者か演出家か、
はたまた歌手か?
みなさんはどう思われます?
今日も最後までありがとうございました!
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