2010年11月03日

親衛隊列伝

フライング・ブラボーの問題は、
実に根の深い問題のようでして。

エッセイストとしても名高かった
今は亡き指揮者の岩城宏之氏も自著本岩城音楽教室」で
ブラボーについて書いて(嘆いて?爆弾)おられました。

岩城音楽教室―美を味わえる子どもに育てる (知恵の森文庫)

岩城音楽教室―美を味わえる子どもに育てる (知恵の森文庫)

  • 作者: 岩城 宏之
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2005/08
  • メディア: 文庫



少し長いですが、面白いので紹介させて頂きます。わーい(嬉しい顔)


「最近ほんとうに困っていることがあります。日本の聴衆の発する「ブラボー!!」の怒号と、きっかけの狂った拍手です。

(中略)

 演奏が終わった途端だけブラボーの一斉射撃があり、不思議なことに、そのあとはもう「ブラボー」は聞こえないのです。

 ヨーロッパの拍手は、はじめは、普通で、演奏者が何回も呼び出されるにつれて、だんだんクレッシェンドして「ブラボー」も増えるようになるのです。

 日本には「ブラボー屋」とでも言いたい人たちがいるようです。これはテレビの録画などに自分の声が入っているのを聞くのがなによりも楽しみというマニアらしく、後に放送されたVTRで自分の声がカットされていたと、NHKに抗議の電話をかけてきというのですから、笑い話にもなりません。こういう人種は、演奏が終わりに近づくとソワソワしだすのです。ゴホン、ウフンとのどの調子を整えます。そしてついにブラボー!と怒鳴るとせいせいした顔つきで、後も見ずにさっさと帰ってしまうのだそうです。音楽が良かったからではないのです。自分の喉のスポーツのためなのです。

 札幌交響楽団が函館で、武満徹さんの「ノヴェンバー・ステップス」という曲を演奏した時のことです。

 この曲の終りはオーケストラと琵琶の音が消えてから、尺八の音だけが細く鋭く「ヒョーッ」と吹き抜けていき、あと何秒間かが音のない、いわば「無」の余韻を漂わせます。この部分が作品の生命を決定し、この一瞬のために作品があるとさえ思える大切な余韻の部分です。
ところがこの尺八のひと吹きが終わるか終らないうちに、いきなり確信に満ちた大きな拍手を一人が始めました。

 この曲はレコードでも有名で、聴衆に知られていたのが災いしたのでしょう。それでもまだみんながつられて拍手するにはいたっていません。しかし、その最初の拍手は絶対の自信を持ってバンバンバンと叩き続けています。

 ぼくも宙ぶらりんの感じで曲を閉じ、聴衆もいやいやながらシラケタ拍手が徐々に起こりました。その日のコンサートは全部ぶち壊しという結果になりました。
感激のあまり拍手してしまうことはその人が感じた証拠であり、ぼくらはいやだとは思いません。

(中略)

 真実の拍手かどうかは聴衆が何を感じたのか、感じないのか、で決められるでしょう。武満さんの「ノヴェンバー・ステップス」のあとの拍手は、ここで曲が終わるという予備知識で叩いのであって感じたから叩いたのではありません。本当に音楽を感じていたら、そんなときに拍手ができるわけがないのです。

(中略)

 ピアニッシモで消え去るような曲を演奏する時など、ただもう、このような「知識拍手」でぶち壊されないことを祈りながら演奏しなければなりません。悲しいことです。

(中略)

 (カール・ベームとウィーン・フィルが来日した時)もちろんほとんどの聴衆は間違いなく、ベームさんの偉大さに感動し、熱狂していました。ぼくが言いたいのは、その一部の人たちの、さっき書いた、「エヘン、エヘン、ブラボー!ああ今日はいい声が出た、さあ帰ろう」的な、意識した「熱狂」を見て、なにかサメたような気分になる、あの空しさなのです。感動、熱狂ということは、すばらしい演奏の結果、予測なく起こることのはで、両手にあまる大きな人形の箱なんかを抱えて、ブラボーを連呼しながら何人、何十人もがおじいさんのベームさんに渡しにステージの上にかけあがり、しかも抱きつくなんてことは、ぼくには音楽会に行く前から決めていた、予定の行動としか思えないのです。

 ベームさんは世界最高の指揮者です。ウィーン・フィルは世界最高のオーケストラです。しかし、彼らも人間です。その日によって出来、不出来もあるのです。そのことを全然感じようともしないで、予定の行動どおりにステージに山のようなプレゼントを持っていくのは、そういう行動をしたいだけのただのマニアであるとしか思えません。この意味で、ぼくは彼らをベームさんのファンだとは思わず、軽蔑の意をこめて「親衛隊だと言いたいのです。

(中略)

 歌舞伎の観客はヘンなところで掛け声をかけると通の客のヒンシュクを買いますが、まだまだ、洋楽の部分では遅れている感じです。」


岩城さんの本本は、必ずどこかに
お腹の皮がよじれるほど笑けたエピソードわーい(嬉しい顔)があり、
その間を縫うように溢れる音楽に対する情熱黒ハートが顔をのぞかせる・・・
といった感じで、どれを読んでも面白くて仕方ありません。わーい(嬉しい顔)

この「ブラボー屋」批判パンチも実に的を得ていて
どれもこれも、お説、ごもっともexclamation
特に最後の一文の説得力が、サスガ・・・です。

やっぱり、みんな、感じることは同じ。
空気、読みましょうよ、って、ね?猫



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posted by Duo A&K at 00:00| Comment(6) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
恋するオペラさん、皆さん
ご意見を読んでいて、日本のコンサート/オペラ状況がよく分かりました。それに比べて米国のオペラ/コンサート観客は行儀正しい方だと思います。音楽/オペラが終って拍手もせず、サッサとホールを駈け出す人は居ますが、フライング・拍手やブラボー屋の様な演奏家や他の観客の迷惑になるような行動はあまり見かけません。シンフォニーの一楽章毎にパチパチ拍手するクラシック初心者が時々居ますが、あて外れと気づいて、二楽章から静かになります。ルチアの様な拍手/ブラボーの機会が多いベル・カントでもアリアのコーダがちゃんと終るまで行儀よく待っています。あて外れな事すると、周りの人からジローと睨みつけられて恥ずかしい想いします。私が思うに、ブラボーを連発する人は逆に新米と見られ、オペラ通の人はよっぽど感激しないと、叫ばないです。

サンフランシスコでの出来事を書きましたが、こちらで常識に外れた行動があれば、迷惑を被る観客が黙っていないし、劇場案内/係員が適切な処置をとります。これからはフライング・拍手やブラボー屋を睨みつけましょう。また、劇場にも状況を訴えるべきだと思います。劇場も、オペラ教育の一角として、オペラ・エチケットを教えるべきです。上演前のアナウンスの他、劇場内に表示したり、観客に配るオペラ・ガイド、チケットの裏にも記載すればどうでしょう?
 
このままフライング・拍手やブラボー屋を放っておくと、初心者もそれが当たり前と思ってマネをします。ウイルスの感染と同じです。本当にオペラ/クラシックを楽しむファンが少なくなるし、優秀なオペラ歌手/楽団が海外から来なくなります。オペラが田舎芝居になりかねません。(オペラが盛んになった当初(1600年代半ば?)、庶民の間であまりにも盛んになりすぎて、利益が目的でオペラの質がずいぶん落ちた時期があります。親衛隊の問題とは別ですが。) 
 
ところで、イタリア語官能な人はソプラノ/メッゾ(女性)には「ブラヴァ/ブラヴィッシマ」、テナー/バス/バリトン(男性)には「ブラヴォ/ブラヴィッシモ」と使い分けています。だいたい、女性用の名詞/動詞/形容詞は***(a)、男性用は***(o)で終るのが普通です。***(i)は男性複数を示します。(1本のスパゲット、沢山のスパゲッティ)女性複数は***(e)に変わります。Bravo, Bravi, Brava, Brave。幾らか例外もあるので気を付けて下さい。
Posted by カラルド at 2010年11月04日 12:20
新国立劇場のウェブ・サイトを調べてみましたが、オペラ・エチケットを書いた欄が見つかりません。「親衛団」の問題、「ご意見箱」に書いてみればどうですか?
Posted by カラルド at 2010年11月04日 12:57
ウォルター・スコットの原作「ラマモァの嫁」をもとにドニゼッティがオペラ化した「ラマモァのルチア」(ランメルモールのルチア)。前世紀半ばまで甘いメロディと歌だけが売り物と思われていたベル・カントの一作、マリア・カラスやジョーン・サザランドのドラマ的な歌い方のお蔭で、近頃ではベル・カントの悲劇作で一番よく上演される(少なくとも米国では)名作になりました。

物語はロメオ/ジュリエットの悲恋が中心。17世紀のスコットランドを背景に、勢力争いで滅びたライバル同士のアッシュトン家の娘ルチアとラベンズウッド家のエドガードが恋に陥る。エドガードはアッシュトン家来に追われ、一時フランスへ逃亡、身を立て直して帰ってくるとルチアに告げる。婚約指輪を交換して愛を誓う。(一幕)

ルチアの兄、エンリコはアッシュトン家の復起を狙いに、富豪のアルチュロとの縁談をルチアに迫る。エンリコの仕業で、エドガードはルチアを捨てて、逃亡先で他の女と暮らしてるとルチアに思わせる。捨てられたと思ったルチアは一家のため、アルチュロとの婚姻書に署名、直後帰ってきたエドガードはルチアが裏切ったと責める。(ニ幕)

むりやり追い詰められた愛の無い結婚とエドガードから責められたルチアはアルチュロ(新郎)を刺し殺し発狂、絶望死。エンリコの仕業と知ったエドガードはルチアに謝るが、手遅れ。この世で結べなければ、あの世でと命を断つ。(三幕)

原作では兄でなく母親が悪者ですが、イタリアで母親を悪役にするのはヤバイので、オペラではルチアの兄が悪役に換えられたと思われます。

次回は最近観たシアトル プロダクションのルチア。
Posted by カラルド at 2010年11月05日 09:20
カラルド様、

こまめなコメントありがとうございます。
いつも興味深く読ませて頂いております。
これだけの見識と、鑑賞実績(?)がおありなのに
こちらのコメント欄にかきこまれるだけでは、
もったいないです。
ご自分でもブログなりを立ち上げられては?
Posted by 恋するオペラ at 2010年11月05日 11:19
最近、オペラの話を交換できるところを探していたのですが、出会いサイトのようなところは避けたいと思っていたやさき、「オペラ・ブログ」の意味も分からず、他人の家に押し込んで喋り放題した恰好になりました。ご迷惑おかけしました事、心深くお詫びします。けっして悪意あっての不作法ではありませんので、お許しを。
Posted by カラルド at 2010年11月06日 10:37
カラルド様、

いえ、別に、責めるつもりで申し上げたわけではありません。
オペラブログに「意味」も何もありませんから、こちらは書いて頂いて全然構わないのです。
ただ、ブログを読むときに、記事は読んでも、コメントまで目を通す方は少ないでしょうから、こちらのコメントにかきこまれるだけでは、私が読むだけで、それでは実際、もったいない、と思っただけなのですが。。
こちらこそ失礼な書き方をしてしまいまして、申し訳ございません。
Posted by 恋するオペラ at 2010年11月07日 17:34
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