ボレロと聞くと必ず頭に浮かぶのが、
今は亡き、ジョルジュ・ドンの、伝説とも言うべき、
かの麗しき肉体美・・・
というとなんだか響きがイヤラシイですけど。
「愛と悲しみのボレロ」なる映画の中で(観たことないけど)
モーリス・ベジャール振付のボレロを踊って名を馳せた(らしい)、
アルゼンチン出身のバレエダンサーです。
確か40代でエイズで急死したんですよね。
エイズってことは・・・え?ソッチの人・・・?
この倒錯したような中性的官能美は
そういうことだったのか・・・?
なんぞと下世話な勘ぐりをしたりもしたものですが。
もともとこのボレロという曲、
セビリアのとある酒場。一人の踊り子が、舞台で足慣らしをしている。
やがて興が乗ってきて、振りが大きくなってくる。
最初はそっぽを向いていた客たちも、次第に踊りに目を向け、
最後には一緒に踊り出す。(ウィキペディアより)
というあらすじを元に作られたバレエ音楽ですので、
この有名なベジャール振付のボレロでも、本来、
中心の赤い円卓に乗ってメロディーを踊るのは
女性舞踏手であるべきなんですね。(初演は女性)
でも、ドンが踊って一世を風靡して以来、男女を問わず、
私でも知っているそうそうたるメンバーが円卓の上で踊っているようです。
シルヴィ・ギエム、マリ=クロード・ピエトラガラ、
パトリック・デュポン、高岸直樹、首藤康之・・・
私は残念ながらどの人も観てないのですが、
この赤い円卓の上でトランス状態(?)で踊るジョルジュ・ドンは
やっぱり衝撃的だと思うのです。↓
野性味。
舐めるような艶めかしさ。
大地から生えてきたようなエロス。
ウエスト回りの脂肪さえ、倒錯したような色気を放つ。
セクシーなんぞという既成語では表現しきれない、
観ている人間を引きずりこむような強烈な存在感は
他を圧して余りあるとも言うべきでしょうか。
何かに憑かれたように踊る様は、一種、神懸り的なもの感じます。
振り付けをしたモーリス・ベジャールが自伝の中で
「芸術家は娼婦なのだ」
と語っている意味が、ドンを観ていると分かる気がします。
対して、シルヴィー・ギエム。
私の記憶が確かならば、ドンの急死後、
メロディー役を引き継いだのがギエムだったと思います。
あの、ドンの代わりが出来るのは、
ギエムの強く完璧な美しかありえない。
そう思ったのを覚えています。
硬質で、水晶のような、
凛とした厳しさ、研ぎ澄まされた美しさ。
見ている側が窒息しそうなほどの集中力が強烈です。
このギエムを観ながら、
「きっとベルばらのオスカル様ってこんな感じの人だろうな〜」
なんぞと思ってしまうのは、私だけでしょうか?
どちらも凄まじいまでのエネルギーを放っているけれど、
ドンの舞踊が官能的で感覚的であるとすれば、
ギエムのそれは崇高で理知的、とでもいうのでしょうか。
ところが後半、曲が盛り上がってきて
周りにリズム部分を踊る男性舞踏手が集まってくると、
意外な感じがします。
ドンは最初から最後まで、リズム舞踏手の存在を
忘れさせるほどの圧倒的な存在感を放っていて、
ギエムもそれに匹敵する強さを出してくるかと思いきや、
意外にも、リズムの男性達に飲み込まれてしまいそうな
女性的な弱さを見せるんですね。
それが逆に「神に捧げる生贄にされた女の悲壮感」のように思えて、
実に印象的です。
同じ音楽、同じ振り付け、なのにこの違い。
面白いですよね。
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ボレロ…ね。
ラベック姉妹の2台ピアノ(+お姉さんのうなり&吠え声)とパーカッション・セッションの熱演を思い出しますの〜。
うれしいぞよ。
いいブログと言って頂いて、光栄です!
ラベック姉妹の熱演、本当に強烈でした〜。。
懐かしいっ!